日本心霊科学協会の機関誌2020年5月号に掲載されました、伽羅レポートの基盤となった点を記します。5月号の追記としてご覧くださいませ。
ウィルスと霊を結ぶ事例
ここに記しますことは事例と呼ぶには適切ではありませんが、多角的な形でインスピレーションを受け取る方々がどこかでご自身との感性に触れる点があるかもしれないと存じ書き加えました。本文中の事例1、2も直接的な前例ではありません。はじめて世に出るものに前例はないので、昔から言われ、行われてきたものを示したにすぎません。これから書く文章が必ずしも皆さまにとって必要かどうかは分かりません。しかしながら、私ひとりの胸の内に留めておくよりは心霊科学の発展に触れる点もあるかと存じますので、本文を書くに至った伏線としてご覧頂きたいと存じます。前記致しましたウィルスとの共生とは、初めて目にした方々にとってみましたら何とも奇抜で危険と捉える方もいらっしゃるかと存じます。極論のような物言いを不快に感じる方もいらっしゃるでしょう。そのことを踏まえながらも共生について述べさせて頂きました理由と、悪霊や善霊の思い、自然神の関わり、それら全てが人間界に現象として現れているということを述べて参ります。ご興味のおありの方は引き続きお付き合いくださいませ。
疫病により殺処分された動物たち
お話しは今より10年前に遡ります。2010年3月、鹿児島と宮崎をまたぐ霧島連山の1つであります新燃岳が小規模の噴火を起こしました。それ以後、くすぶり続ける火山活動とその風向きにより宮崎は火山灰に悩むことになりました。プロ野球のキャンプ地にもなっている為、球団に来てはもらえなくなるのではないかと宮崎の県民たちは随分と困りました。同年4月、宮崎で口蹄疫が流行り牛や豚が感染しました。口蹄疫で殺処分された宮崎の牛や豚は合わせて28万8千頭でした。
県民の悲しみはピークに
翌年の2011年元旦。私は宮崎県の日南海岸にいました。太平洋から昇る初日の出を拝むためにその場に居たのです。だんだんと明るさを増す紺色の空と色みを帯びてきた海を眺めていますと、海の上に赤く丸い光が目に入りました。いつ何処から現れたのかは分かりません。その玉は海の上を走ったり浮いたりを繰り返した後、こちらへ向かってやってきました。水平線から朝日が見え始めると同時にその赤い玉は「他へ」と言って消えました。この時は、その赤い玉が何者で「ほかへ」と言ったその言葉がどういう意味なのか全く分かりませんでした。同年1月、宮崎では更に追い打ちをかける辛い出来事が起こりました。今度は鳥インフルエンザが発生し鳥の殺処分は41万羽に上りました。2010年からの火山活動による噴火や口蹄疫による牛豚の莫大な犠牲、輪をかけてなお鳥も疫病で殺してしまわなければならない甚大な被災状況に、当時の衆議院議員のお1人が「命を粗末にしていることに宮崎の大地の神様が怒り猛っているように感じる」とブログでかかれてしまうほどの事態に陥ってしまいました。
霊的視点による東日本大震災
ちょうどこの頃、多くの霊能力者や予知能力者は南海トラフ巨大地震を予知していました。私もその1人でしたので、この災難を回避するために数年前より準備をしておりましたが、やはりこのことは避けられないのかなと覚悟していた部分もありました。ところが、来る3月11日。私の思いも寄らぬところで大地震は起こりました。その時ようやく私の指導霊が教えてくれました。元旦に視た赤い玉は神界の使いであり、地を動かす場所の下見に来ていたというのです。宮崎の悲しみに浸ったその波長を神界が受け取り予定していた地動の場所を逸らす意志と繋がったというのです。そうして宮崎は鳥たちが自ら犠牲になったことであと一歩の憂いに届き、完全に逸らすことに至ったそうです。「動物たちの愛が、その地とその地の人間を守った」と言いました。私の中では少々信じ難い内容でありました。なぜなら動物たちは殺処分されましたし、そうではなくとも、そもそも人間たちが食用として最終的にはと殺して命を頂く。結局は人間に殺されてしまうのに動物たちが守るとはどういう意味なのか分かりませんでした。すると指導霊はこう答えました。「動物たちは自分たちが生きた大地をとても愛している。自分を生かしてくれる者として人も大切に思っている。人に食べられるという最終的な『死』の形はそのカルマを持って生まれた動物にとっては苦しみではない。その最後の瞬間までは人間が大切に世話をしてくれる。当然、自分たちが生きる生活のためにそうするのであるけれど、それでも牛や豚を大切に育てる。人間たちは一生懸命に面倒をみて、その命に感謝をしている。牛や豚の子孫が生まれ、人はまたお金を掛けて育てる。束の間ではあるけれど最後の瞬間まで人間は責任を持って世話をする。自由はないが空腹もない。自分たちを生かしてくれるのであれば、世話をする人間にも生きていてもらわないと困る。この連鎖は牛豚にとって不幸なこととは思っていない。人間の管理がなければそもそもの存在の数はもっと少ない。」そう言われても、私はまだ分からないことがありました。「一生懸命に家畜の世話をしているのは全国どこの人たちも同じのはず。南海トラフでの地動を止めたとしても、なぜ東日本で起こしたのか」
このことに対して指導霊はこう言いました。「動物が犠牲となり起こした悲しみの現象により、南日本には全国から沢山の慈悲の思いが集まりました。気の毒に思われる波長は愛の一種です。南日本は一時的に動物だけではなく、全国の多くの人たちの慈愛によって守られたとも言えます。波長とは常に流れる水と同じ。自然神と精霊と人。この全ての思いのバランスが取れていなければ、波長に溝が生じ満杯になった負の波はその溝を伝って流れる。その溝が南日本は寸前で満たされ見えない防波堤を作りましたが、東日本にはそれが無かった。その為に神界の意志は地動を逸らす理由を見つけることが出来なかった。選ばれたわけではなく、日々の3つの霊とのアンバランスの作用により、たまたまそこに流れたことで地動が起きてしまった。」そのバランスを保つにはどうすることが良いのかと尋ねました。「自然との共生を思い出すこと。それは精霊に話しかけ心を通わせること。人間は言葉を使う。言霊とは誰でも使え、神界や精霊、そして人間そのものの持つ霊的波長と繋がる。美しい言葉をたくさん使うことで精霊たちは喜びその美しさを守ろうとする。その波長は負の波長の流れ込みを防ぐ防波堤になる。同調のためのうわべだけで使う偽物の言葉ではなく、心からの慈愛をもった言葉でないと意味がない。最近はその事が薄れてきている。正しい心とただしい言葉が離れ離れになってきていることも波長の乱れの原因。乱れるからといって使わないでいると言霊のチカラは弱まる。心のこもった言葉を取り戻して欲しい」この体験から感染症や地震と霊の繋がりを意識して見るようになりました。
疫病の歴史と新型コロナウィルスの性質
近年、人を苦しめてきた感染症はいくつかあります。HIVや結核は死の病と恐れられましたが、特効薬の出現により今ではパニックを引き起こすほどの威力はなくなりました。それ以前に日本を含め世界で大流行した疫病にコレラというものがありました。コレラは1817年に第1次世界大流行した後、1899年第6次世界大流行まで世界に蔓延していました。日本でのこれらの脅威が収まるのは1920年代で、患者数が1万人をきったのはようやくこの頃からでした。そうしてその3年後の1923年に関東大震災が起こりました。関東大震災につきましては、後ほど述べたいと存じます。コレラは当時コロリと呼ばれるほど、罹患したらすぐに死んでしまうと恐れられた感染症ですが、コレラの状況と現在の新型コロナウィルスで大きく異なる点があります。まずは衛生環境の異なりです。昭和、平成、令和という時代の流れのなか人々は除菌、滅菌にずいぶん熱心になりました。昔に比べると菌やウィルスに触れる機会は少なくなったのです。昭和初期以前の日本は現在に比べるとまだまだ不衛生な状況がありました。それでも他国と比較をすると群を抜いて清潔に日常は保たれていました。コレラの出現で人々はより一層、衛星面に気を配るようになり、足りていない分の除菌、滅菌は年々、人々の研究努力により完璧ともいえるほど清潔に保てるようになりコレラは影を潜めました。ところが、この度の新型コロナウィルスはこれだけの除菌、滅菌をあざ笑うかのようにあっという間に全国に広まりました。今まで以上の徹底した除菌対策、今まで以上の接触の管理、今まで以上の換気、今まで以上のセルフチェック。今までが全く通用しないウィルスに人々は右往左往しています。人はどこまで高度な除菌、滅菌を繰り返したら安心した日常を過ごせるのでしょうか。実は視点は違うところにあるのです。コレラの大流行の時には生活上の不衛生さを突かれましたが、現代は心の不衛生さを突かれたのです。新型コロナウィルスを特定した抗ウィルス薬は一定期間を過ぎましたら尽力された方々の努力によって開発されます。それまでの一定期間に人々にはやるべきことがあります。テクノロジーを纏うことで置き去りにされてしまった心を取り戻す作業です。この事は、ふだん目には見えていない世界であります霊界と関わる部分になります。
善霊界と悪霊界の悩み
心霊科学に携わる方でしたら、善霊や悪霊という言葉を見聞きされることはさほど珍しくない事かと存じます。それぞれの世界の抱える問題も人間界に反映されていますが、この度の感染症が霊的作用であることのお話しを致します。人間は肉体を失い霊魂もしくは霊体だけになると、霊界に向かいます。向かい方は様々で、歩いたり乗り物に乗って向かわせられたり色々ありますので割愛いたしますが、最長48日までに霊界の門の中に入り49日目からは霊界のいずれかに行かなければ霊魂や霊体は現世を彷徨うと言われています。たいていの霊が視える方々は現世を彷徨う霊を見ていますが、その狭間にいる霊たちのことは見せてもらう機会が少ないかと存じます。49日以降にも霊界に行かない霊は、浮遊霊として現世を彷徨う以外の行動とは別に、他に行く場所があります。霊界と人間界の狭間にあります『グレー』と呼ばれる世界です。近代ではこの場所に集まる霊たちが増えています。グレーとはどのような世界かというと、見た目は全く人間界と変わりません。違いは太陽が無く、昼はうっすら明るい曇りであるか、夜は月や星もないのにうっすらと明るい暗がりであること。辺りの景色は様々で古代から近未来の物が入り混じっているけれど、触れられる物はすべて自分のイメージ通りの動きをする。要するに生きてきた人間たちの理想で構成された場所なのです。そこには善も悪もなく、昼と夜は常に入り混じったグレーの状態であるため、その場所はそのように呼ばれます。戦争などを経験せず、安楽に暮らしてきた近代の日本人の多くは、まずはこのグレーに立ち寄ります。その思考は「とりあえず、やることが見つかるまで今まで通りをやろう」という概念です。善霊界に行くにははっきりと生きてきた意志というものがないと入ることが出来ません。善霊界の中の天国や菩薩界と言われる場所でさえ、この善霊界の門を通らなければ行くことが出来なくなっています。天国などはこのグレーとは違い、もっと輝かしい場所です。悪霊界も同様に、はっきりとした未練や怨恨がなければ行けない場所です。よって地獄に行くこともありません。
一線を越え切らないグレーの世界
お話しを戻しますが、グレーにいる霊たちの今まで通りをやるということのたいていは、美味しいものを食べようとビュッフェや宴会場で好きな料理をお皿に盛りますが、食べることは出来ないのでただ眺めていたり、人と会っては中身のないお喋りをいつまでもしていたり、ただただ街中を行く当てもなく歩いていたり、行き先もわからない電車を待っていたり、何も書かれていない白紙の本を読んでいたり、やっていることはいっぱしのようで進歩も後退もありません。同じこと、似たようなことを繰り返すのみでそこには、そういった行動を繰り返すことの「意味」というものが全く存在しないのです。グレーに入った霊体のほとんどが、何が良くて何が悪いことなのかなど考えることさえもしない、代わりに争うこともないそんな時間を過ごしています。人間界からすると争いのない世界というのは理想の世界です。争いがあるよりはこのようにグレーである方がある意味平和です。そのような世界の反映はおおよそ人間界に表れていますので、思い当たる方々もいらっしゃると存じます。問題はこのグレーの次元が膨張し飽和状態になることです。すべての次元は有限ですべてのものは循環し宇宙は構成されています。目に視えるこの地上を例に致しましても人口が現在の2倍になってしまったら地球はどうなるでしょうか。想像しただけで何が起こるか分かります。同じように、ある次元にばかり何かが集まるということは必ず崩壊するということです。世界を脅かす感染症や火事や地震は飽和状態になったグレーから引き出されているといって過言ではないでしょう。引き出す者こそが皆が神と崇める次元の方々です。宇宙の真理を絶対的に守る方々むしろ真理そのものと申し上げた方が早いかもしれません。
グレーから俱霊に
神界はグレーから抜けられない霊体にやるべき事を与えます。やるべき事とはグレーの霊たちが最も望んでいる事でもあります。その最たる事はもう一度人間界へ行くということです。生きている間、たいした苦労も努力も意志もなく生涯を終えた人間は、人間界が最高の場所だと思っています。グレーの世界は理想の世界ですからとくだん不満はありませんが、どこかでそこは魂を存在させるための『本当の世界ではない』ということに気付きだしていきます。霊魂を存在させる世界とは善霊界か悪霊界か人間界そしてグレーでも神に認められた一部の世界だけです。よってグレーの世界の大抵の霊たちはある時期がくると『一度だけ』人間界に戻してもらえます。ただし、その姿は人間ではなく菌やウィルスに憑依し人間に入り込む事の出来る『俱霊』として生きかえらされます。人の中に入ることで人であった頃の五感を取り戻し、味わったり、温かさや、冷たさ、痛みも、和らぎも感じることが出来ます。ただし、俱霊は自分たちの立場を理解していません。人間であった頃のように良いものに飛びつき、喜び、生を謳歌しているだけです。何も悪いことをしていません。反対に人間側では俱霊を憑けたウィルスに入り込まれた人は、自分自身ではない実体に侵され多量の俱霊とウィルスを入れ込むと制御できずに肉体が死んでしまいます。俱霊は誰かを殺したという自覚はありません。肉体を蝕むのはウィルスで自分たちは人としての感覚を借りたいだけです。悪いという認識はないのです。ただし、不本意にも亡くなってしまった人間の方は、生きるという事に対して強い概念を持ちます。このような事情を知った霊体は」二度と同じことが繰り返さないようにと修行をするため、自分に合った次元である善霊界か悪霊界に迷わず進みます。グレー界には見向きもしません。俱霊によって肉体が死んでしまった人はグレーの世界には行かないのです。同時に俱霊も亡くなった人と一緒に霊界について行かされますので、グレーに戻ることはありません。そうしてようやく善霊界、悪霊界、グレー界、人間界のバランスは取れます。のちに特効薬というものが出来、人類がコロナウィルスに対処できるようになった時、すべてのバランスが取れていましたら問題ありません。しかし、それでも霊界の何処かにまだ過不足がある場合、大地震などが起こり、いっぺんに多くの命を奪います。先述しました関東大震災もコレラの衰退を経て起こったと聞いています。
すべての鍵を握るのは人間
この地球上で人間が筆頭生物でいられるためには、この4つの世界のバランスをとることを目指さなければなりません。誰でも苦労なく楽に生きたい、とくに愛する人や我が子には苦労させたくない。その通りです。ただし、苦労させないということと、生活に胡坐をかきながら生きるという事とは別です。苦労の根底は、金銭面であったり、精神面、健康面、もしくは他人との縁であったりします。どの部分の不足が当人にとって不幸であるのかは、親子であっても異なります。自分が不幸だと思う苦労も他人にとっては幸せな苦労であったりします。最もつまらないことは経験のないことです。色んな場所に行きなさいという意味ではありません。同じ場所でも自分の意志を貫けることをやるという事です。お話しが逸れますので詳細は割愛致しますが、生まれてから長くてもせいぜい百年前後しかこの地上に居られない私たちは、宇宙に漂う計り知れない数の意識から羨ましがられる存在なのです。その意識は私たちを見ながら、自分たちならこうするああすると思いながら、新しく生まれてきます。そして新しい時代は作られていきます。新しい生命のためにも、私たちはより人と自然が健康的に生き続けられるように努力をしなければなりません。俱霊となり人の生命を脅かす存在になる前に、百年ほどの短い間に何かを貫くためのしっかりとした「意志」をもって生きるということ。なんとなくで人生を終わることをやめるということです。それだけ、人間として生まれたということそのものに意味があるということなのです。
限られてしまったやるべきこと
冒頭にふれました動物のウィルス感染と東日本大震災の関係も同じことが言えます。この度は世界の壁を越えて、地球全体がその対象となりました。始まってしまったものには今度は対処しかありません。本文にて述べました通りこの度のウィルスには愛を持って共生することで、1人ひとりの中に再び人生をやり直したい霊魂と共に過ごしてあげることが出来ます。そうなれば、守りも2倍です。当然、顕微鏡で見れば可視化出来るもの(ウィルス)に俱霊は憑いていますので人間同士で濃厚接触をしないということはまずは効果的です。そうして各々で籠っている間に出来ることが本文にも示しました俱霊を伴ったウィルスへの語り掛けです。怖れていては建設的なことは何も始まりません。人間の力では本当の意味で滅することなど出来ません。怖れは憎しみを生みます。罹患し、共生がうまくいかずに亡くなる方はこれからもいらっしゃいます。憎んで亡くなれば、その魂は憎しみのものになります。反対に愛をもってしても亡くなる方もいらっしゃるでしょう。それでも、その魂は愛の物になります。皆さんはどちらを選ばれるでしょうか。それも人それぞれです。強制はありません。
最後に
5月号に掲載しました本文を執筆するにあたっての伏線を述べて参りましたが、こちらの追記致しました伏線の方が遥かに内容としては濃いものとなっております。皆さまにおかれましては、この言葉の裏側にあります波長を読み取って頂けましたら幸いに存じます。