新型コロナウィルスが世界に蔓延した状態から2ヵ月が経ちました。5月に入り新型コロナウィルスに憑依した憑依霊は次の段階を迎えています。ウィルスと共に人に侵入し、うまく憑依している霊。ウィルスに憑依はしたけれど人にうまく憑くことが出来ず、ウィルスの死により新たに現世で行き場をなくした霊など。また、俱霊のなかでも意識レベルの高い霊は早い段階で新型コロナウィルスからの憑依をやめている者もいます。理由は人間たちのパンデミックを理解し自分たちの行いを俯瞰的に視ることの出来るレベルの霊がそうしています。自分たちが人間界へ放出された事により、人々が苦しい目にあっていることを認知できたのです。また、それとは反対に状況を全く理解できていない霊で、憑依に失敗した霊はただただ助けを求め彷徨い続けることになります。もともとの人間界に留まった未成仏霊と同じになるということです。未成仏霊との唯一の違いは、新型コロナウィルスさえ漂えば俱霊は憑依をすることを許されていて、ただの未成仏霊はウィルスへの憑依を許されていないという点です。生きている人間が神が自分を見てくれない、自分はここにいてこんなに苦しんでいるのにという思いをすることと同様、俱霊は同じ思いを私たち人間に向けだしてきています。俱霊からみれば私たち人間は神と同じ。人間界を彷徨う肉体をなくした霊にとっては肉体を持つ人間が神。なかでも本物の神は目には見えない霊を理解し精神を理解しそのことを肉体を使って表現する。肉体を使った表現とは様々で絵画や音楽、踊りや芝居もその一つといえるけれど表現を極めなければ伝わらないということではないのです。日々、目にはみえない存在を感じ、時に通じようとし、明確な認知はなくとも水や食料を見えない存在に分かち合おうとする行為は人間にしか出来ないことです。当然、人間以外の動物も霊の存在を認知していますけれど人間の行うレベルほどに祀るという行為がうまく出来ません。よって人間にその事が多く頼られ、託されているのが現状です。
グレー界は新たに「ミドル界」へ
俱霊たちは善霊界、悪霊界とは別に、今までグレーと呼ばれる世界に居た霊たちのことですが、グレー界の改革により俱霊は「ミドル」と呼ばれる霊になれた者だけが元のグレー界に戻る事が出来ます。元グレー界は新たに緑の色調を主としたミドル界に生まれ変わりつつあります。そこに向かう人間のことをこれからはミドラー(ミドル界の人、もしくは緑の人)と呼ばれることになります。
どうすることが霊と人間にとって最善であるのか
人間界に放出されてしまった俱霊に必要なことは、意志を持たせることです。善霊界や悪霊界に進めなかった半成仏霊になってしまった理由は、生きている間に魂に刻む「何か」の事柄を達成することなく肉体が滅したためです。ただ生きることを謳歌し難なく人生というものを過ごした元人間が多いです。それぞれ、食べるための仕事をし、やりがいのある事柄にも触れ、スポーツや夢、孤独でも自由奔放に生き、社会にもおおいに貢献し、誰にも迷惑をかけずに生きた人、ただただ可愛がられて生きた人、俱霊のほとんどは周りからみれば平和にこの世界を去った人であることが多いです。それにも関わらず半分しか成仏しきれない理由は「生きる」ということの本来を全うしなかったためです。生きることだけが全てで、それ以外は何もないと思っていたために、人間界に似たような世界があれば、ついそこに立ち寄ってしまいそのまま居座ってしまうのです。
グレー界に居れば気のいい人(霊です)がいつでも話しかけてきてくれますし、見た目は人間界にあるものと何も変わらない世界ですので安心するのです。少し昔の霊は、この世の中をこうしたいああしたいという意志や、誰かのためにどうなりたい、自分にあとどれほどのチカラがあればこうなったのになど、それらを強く胸に刻む「生きざま」というものがありました。生きざまがなければ善霊界にも悪霊界にも進めないのです。それでも以前は天国と呼ばれるところに喜んで入り、魂の行き場として賑わった世界も最近では霊たちにずいぶん人気がなくなっています。それだけ生きていたころの世界の方が素晴らしいと思い込んでいるため、魂だけの完全な幸せというものを求めない霊が増えてきているのです。魂の幸せは自分には必要のないことと思ってしまうのは、霊性が未熟であるためです。霊と魂は分離され使い物にならない霊体だけが俱霊界に漂うようになり飽和状態になりました。分離された魂は宇宙の一部に戻るためあとは神界の管轄になります。ただ、その魂の質が人間界を経由させたにも拘わらず、あまりにも低質なため神界は霊界に革命を起こし俱霊の居るグレー界を改革しなければならなくなったのです。神界が魂の質を大切にするのはその魂こそがこれからの宇宙の質を作っていくために、どうしてもこだわります。
これからの人間の生き方とは
グレー界がミドル界になり出入りが厳しくなる際、人間はどのような思いで生きるべきかを問われることになります。それは、何でもよいので「貫くもの」をみつけ人生の中でやり遂げるという実践を行うことです。このことが霊性を高め魂の質を良くし神界の求めるものとなります。さらには、霊性が高まれば神界の働きを読むことが出来るためお互い最も必要なものを与え合うことが出来ます。何でもよいと申しましたけれど、そこには必ず自分の意志が入らなければいけません。親が言ったからやってみた、いちばん楽そうだからやってみたでは意味がありません。他人の真似を嫌がる方もいますけれど、内観をしその事が自分の本当にやりたい事であるならば、ものまねではなく、やりたかった事のスタートラインが違っただけという解釈で良いのです。肉体があるうちにこれらのことが出来るまでに至りたい人間は意外と多いです。けれど、思うばかりではっきりとした指標を誰も掲げてくれない為そこまでこだわる事がおかしいのかなと、気が付いているのにせっかくのチャンスを逃しています。
「貫く」ことの一つとしてお詣りをよく耳にし目に致します。ただその心は「ご利益」といった小さな努力で大きな願いを叶えたいという人間が多いです。自分の口では小さな願いであると言っても、家内安全を叶えるということがどれほど大変なことなのか、皆が健康でいてもらうことがどれほど奇跡的なことなのか、商売繁盛がどれほどの努力をしなければ繁盛に至らないのか、皆その大変さを知っているからこそ神に願うのです。その大変さを忘れてしまう原因は、何でも簡単に誰でも出来ると謳うメディアの方向性やそれに群がる人々。面倒な目の前の問題に目を向けずとも水も食料もあるので気を散らすことが出来ます。自分を強く見せるための衣類やアイテムもあります。問題のある人に限って問題は特にないと言う言葉もよく聞きます。願いは叶いすべて整っているにもかかわらず現世の欲に目移りし本来やるべき事を後回しにし人生が終わる人も多いです。現実逃避は人間界の問題だけではなく、霊界や神界に大きく影響したのです。また、神頼みの際にも自分の思考の中の期待に応えてもらうことがお参りの基準であることが殆どです。本当のご利益とは、自分ではなかなか気がつかないものです。なぜなら、神の動かすレベルの事とは、やすやすと人間の目に分かり易くできていないからです。見えない道を見えない水が流れ、それは誰の邪魔もせずだれにも影響を与えず、心あるその人間にだけ、その求める願いの水を辿り着かせることはそもそも人間にできない技であるのですから、思った方向から願いが届くわけがないという事を理解しておかなければなりません。思った通りの願いでなければ、ねたみ、ひがみ、恨むということも霊性が未熟であるためです。そのために魂はその質を高めるためあなたの霊性をまず高めようと様々な試練を準備します。どうあがいても、人間は魂を磨き高めるための試練から逃れることは出来ないのです。わたしのような供養家が霊的浄化や成仏に関わるのは、その魂の試練を行うための邪魔をする霊たちと交渉することです。その人自身の持つ魂の修行に手を出したりはしません。試練を乗り越えた先に、人としての幸せに気づく目を養い、その目が魂を強くすることに繋がります。
この先ミドル界の受け入れる霊とは、善も悪もその両端を理解した者。さらに人間界で得た崇高な魂と共に神界と繋がる者。その愛と幸せをもって貫いた「意志」を、神界である宇宙と人間とを繋ぐ役割を担える霊となります。これまでのように「ただなんとなく」では入れない世界になりました。そのために人間界もこれほどの肉体の犠牲を払っています。愛と幸せには善悪両方が必要です。憎しみと不幸にも同様に善悪が必要であるように。俱霊を憑依させた人、未成仏霊を憑依させやすい人、霊など信じない人全ての人間は、なんでもいいので生きている間にこれという貫く何かを見つけてください。それは魂に刻むほどの物事ですから、時に苦しく時に命さえうとましく思えることもあります。それでも貫こうとする意志が働いた時、人ははじめて神と繋がります。人目など気にしてはいけません。他人の現実と自分の現実はよくよく見えている世界が違うからです。生まれた時の目線や感覚を思い出してください。人間社会に作り塗られた常識を見つめなおし、自分の心に従うこと。ただし社会のルールは守り、社会を脅かさないこと。そうして、時に科学を利用しその感覚が幻想すぎる部分にいるのかいないのかを確認するのも良いことです。崇高な魂を持つ人間をモデルにし、誰かに自分とその人との違いを比較してもらってもよいでしょう。とにかく貫く何かを準備されますように。見つけている方は貫く強さがうまく育ちますように。