現代人がお盆にやることといえば『里帰り』というワードを想像します。この季節は、生家にて故人と共に過ごすために帰るという大義名分のもと連休というものが頂けます、そもそもは。
人というのは昔から本心を表に出しては、社会生活を営みにくいという特徴を持っています。よって、生家に戻って肉親に甘えに帰りたい、久々に子どもの顔を見てお喋りをしたりお世話をしたい。こういった生きた人間の基本的な欲求を満たすために、堂々と仕事を休んで家族に会うということが『お盆』の存在で、その特別な時間を自然と得られるように組まれたわけです。
同時に人は、飽き易い生き物でもあります。毎年毎年、同じことの繰り返しというのは、有難みが薄れることと繋がります。親も元気、子どもも元気、そうなると、せっかくの長期の連休はふだん出来ないレジャーを選択する年も出てくると思われます。それはそれで、家族の合意のもとレジャー優先というのも人として当然の行動といえます。もしくは、どこにも行かずにのんびり過ごすという自分だけの時間を持つ人もいることでしょう。
お盆の由来ひとつにせよ、元々は7月に設定されていたものを、この時期はみんな忙しいからと人都合で8月に変えられてしまったわけですし、自分たちに都合がよければ人はなんでもよいのです。ぜったいに自分たちで変えることの出来ない地球の自転と公転や月の満ち欠け、太陽とのかかわり。それらに従って生きるなかで自分たちの生きる都合に変更できるということは重要なポイントです。
ただ、そうは言っても昔ながらの信仰心を持つ人も日本人にはまだまだたくさんいらっしゃいます。お墓が田舎であればあるほど、お墓にたどり着くまでの雑草を除去することから始めます。お盆を迎えるまでに暑いなか何度も足場の悪い山道を除草剤をまいたり道具を使って刈ったりするわけです。お墓のお掃除や花をあげるタイミングはそこそこの家で異なります。お仏壇にあげるお花の準備やお料理の支度もあります。人が集まれば招く準備もしなければなりません。そのようななか、やはり現代人に合ったカタチに段々とお墓というものも変化していきます。戸建てのお墓が遠く面倒をみられないくらいだったら納骨堂に移すお家も増えました。さらには、もうお墓すら持たない散骨という海や山に遺骨を委ねるというお家も珍しくありません。お墓や仏壇がなければお盆の意味合いは薄れてきます。先祖供養は故人のことだけを表しているわけではないといわれます。生きている父母、祖父母、曾祖父母も含め先祖ですから生きている間に感謝を表す時期にしなさいという方もいらっしゃいます。けれども、それは現代では十分に父の日、母の日、敬老の日、勤労感謝の日、誕生日、節目ごとの還暦やら喜寿やら傘寿やらエトセトラ…お祝い事や感謝する機会が多すぎて貧しい若者はそれこそやりきれないというのが現実です。もう、みんな十分やっているのです。資本主義社会の戦略に乗ることにも疲弊しています。
お盆がなくなる。と申しましたが、これからを生きる若い人々の中でお盆という信仰心がなくなっても夏にお休みを頂けるとういことが定着した昨今では、ただの『暑季休み』で十分であるということです。『お盆』すなわちお墓のお世話や仏様の送迎の準備や、親せきを招くというために帰省する人は、おおよそ「暑い中大変ですね」と奇特がられる貴重な存在になっていくのだと予想しているのです。