2021年5月25日加筆修正
皆さま、平成最後のお盆はいかがお過ごしでしたでしょうか。お休みが頂けた方もあっという間に終わってしまったという感じかと思われます。さて、前頁にてどこの誰とも分からない未成仏霊をもてなしていたかもしれないお家の方。安心してください。だからお盆のしきたりは必要なのです。お宅にお坊さんや神職の方が来られてお経をあげる、精霊流しをする、送り火をする。この行為は、未成仏霊が本来行かなければならない霊界への道へ案内をすることです。ただただ彷徨い、行くあてもない魂は疲れています。肉体がないのに疲れるの?と思われるでしょうけれど、肉体が無いからこそ、一度疲労してしまうと『回復』しづらいのです。体は休めれば回復します。けれど心を回復させる時、皆さんはどうされますか?五感を使って心を癒しませんか?眼・耳・鼻・舌・身。これら全て失っている霊体は疲れを回復出来ません。募るばかりです。唯一の回復の方法は人の心です。思いを頼りにのみ癒されます。貴方が誰か別の人の事を思って準備した食べ物かどうか、霊体になってからの時が長いと違うと感じます。薄々自分のためではないということくらいは分かるのです。それでも、貴方が準備した思いに応える霊体がそこに居ないのならば、思いに飢えている霊は藁をも掴む思いでその心に触れたいのです。そうして、人が人ではない、見えない霊に対して準備したものに触れた瞬間、魂は癒されるのです。その時にようやく自分が本来行かなければならない道に足が向くのです。こういう事が、自分の家で行われていると分かった時に、身内のためでないならもうやらないと思う人もいるかもしれません。人間界だったらこういう時、宿泊料や飲食代としてお金を貰うことも出来ますが、霊はお金を払ってくれませんからね。損した気持ちになったり、単純に気持ち悪いと思うことが普通かもしれません。ただ、この一連の流れを作る行動をする人が、宇宙から必ずもらえるモノがあります。それは、『徳』というものです。
この世界で唯一買う事の出来ないものがあるならば、それは『縁』です。違う言い方をすれば『運』と言ってもいいかもしれません。人間界で生きる上で幸せに生きるためにお金以上にあると便利なものです。そうして、それこそが前述しました徳を集めることでより強い『運』となっていきます。このことも、また違う機会にお話ししたいと思います。本題から逸れてしまいそうなのでここで戻したいと思います。お盆がなくなったら、彷徨える魂たちの癒される機会が減るということです。生きている人間の都合ばかりを考えたら、確かに暑季休みで良いかもしれません。けれど、見ず知らずの亡くなった方の苦しみを知らぬ間に救っているということ、さらにそうする事で徳を積むということが実は生きている私たちのためにもなるということ。身内のためにもてなしをすることは、結構ふつうのことですし、当たり前です。知らない人にするからこそ、徳が増えます。…ということらしいです。霊界の方がそう言うのでお伝えしています。
このまま、現代人の合理主義はお盆をなくしてしまうのか。今回の主題に答えるとしたら、答えはNoです。どんなに合理主義が進んでも人が生まれ、人が死ぬという真理であり原理は変えることが出来ません。一人の人間が生きるおよそ100年の間に必ず死という別れと直面します。生きている人間にとって、死に触れるということは、とてもショッキングで目の前の全ての物事を揺るがし歪めるほどのチカラを持っています。死の恐ろしさに触れた時、人は初めて生きるということが何なのかを知ります。生きるというのは肉体が存在するということです。現世でいうところの。もちろん、霊体が生きているという言い方もします。けれども人間界では実体が無くなれば即ち『死』です。肉体を失くすという大業を遂げた霊魂に対して手を合わせる、心を添わせるという行為は人の遺伝子に組み込まれていると言っても過言ではありません。日本人だけではなく世界の誰かが、どこかで、その大業を成し遂げるための時間を過ごし、一線を超えた方は弔われます。ふだんは慣れてしまった長期のお休みが、今までそこに存在したはずの誰かをただ思い、感じ、話しかけても返事がこない、そんな時間を過ごす年が必ず出てくるのです。この世界の人々は、その事を繰り返しながら生きています。必ず誰かが死と深く向き合うことを強いられ、失い、寂しさや、口惜しさや、虚しさと悲しみを一気に引き受けます。そういった意味でもお盆は大切な意味を成します。故人の命日の供養はそれぞれで達成感もあります。ただ、その事をもっと多くの沢山の人と同じ気持ちで分かち合える。そんな時を、逝った人だけでなく残された人も必要としています。真剣に考えなくてよかった時がどれほど幸せだったのか、何も分かっていない子どもだったのか、残された人間は色んなことを考えます。だけど、皆同じなのです。字もかけない子どものように、生理的なことというのは一つ一つ経験してやがて文が書けるほどに繋がっていきます。その文の全体像が見えた頃に今度は自分が旅立つ頃となります。伝えきれないほどの経験を胸に若者を見る眼差しは、応援する気持ち以外ありません。
ここでは、それらのからくりを早い段階から生きている皆さんに知っていただきたく開いた場所です。お盆の最終日であり終戦記念日であった昨日、たくさんの人が霊魂を思うことで、たくさんの未成仏霊も浄化されたことと思います。ただ、じつはまだまだ足りないのです。ふだんから、もう少し未成仏霊が成仏しやすい環境を作っていきたいと思うのも筆者の考えであり、霊界の方の意志でもあります。長くなりましたのでこの辺で終わります。お付き合いありがとうございました。